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●皇祖神(皇室の祖神)・伊勢の神宮は内宮に御祭りされ

高天原を統治される神々の中で最高至貴とされる大御神様です。     

 

●御神徳 生けとし生けるもの全ての誕生から生成発展を司り、

八百萬の神々の御神徳をより高められるという御神力は他に並ぶ
もののない偉大なる御神徳です。
ゆえに大御神徳(ご利益)を挙げれば限りがありません。

 

国家守護

開運隆盛、勝運合格、子授安産

文学歌謡、厄災消除、交通安全

立身出世、罪障祓滅、先導開拓

など

​主祭神 天照皇大御神

​由  緒

御創祀年代は不詳では有るが、久岐今福御厨が開領された頃に遡り千年以上の歴史を持つと云い伝わる。現在の御祭神は天照皇大神一柱である。

​江戸期までは三十番神宮と称され榎並荘の鎮守社として広く信仰を仰いだと伝えられる千年以上の歴史も持つ古宮です。

所蔵の棟札が六枚有り、内四枚に三十番神但し天照皇大神両側に春日大神、八幡宮と三行に記載されている。各札には文禄三年、宝永四年、亨保十一年、寛保二年、延亨四年、天保十三年と記され夫々修改築がされた。

昭和七年に大規模な社殿改修がされたが平成七年、阪神淡路大震災により大きく被災し同年拝殿を瓦葺から瓦型打銅板葺に改修、現在まで被災した末社等施設を改修し続けている。

明治元年神仏分離令を受け明治五年に皇大神宮と称し、旧社格は村社に列せられた。明治四十四年に会計指定社、大正元年に神饌幣帛供進社となり、戦後、昭和二十二年神道指令により国家の管理から離れ、現在の護持運営の形となった。

​久岐今福御厨
古地図の今福

今福の地名の初見は貞応三年八月十日の宣陽門院所領目録にあり「新御領〈自上西門院被進之〉摂津国久岐今福御厨」と記され長講堂領となっている。 「久岐」は国境の意で摂津國の境の示し 「今福」は「今封戸」が転じたもので新御領を示す。御厨の起源は,御厨子所の設置確認が寛平九年である為、 その所領である御厨は九世紀末まで遡りうる。久岐今福御厨は鳥羽天皇の皇女上西門院より寄進された新御領で,上西門院が母待賢門院より法金剛院領を相伝したのが久安元年、此れを上西門院が獲得した荘園とともに宣陽門院に譲ったのは文治五年であることから遅くとも十二世紀中頃には成立していた。創祀の始まりが明確ではないものの,少なくとも平安末期には当宮は創祀されていたと云われるのは此れに由来する。

榎の老樹と榎並荘

木下與右衛門御検地帳(文禄三年)に東西二十六間南北十七間面積一反四畝四町歩を除地されたと記載されている。又、今福地開発百姓宮座として年積りたる者六人が六老と云い神社の掃除一式を執り行っていると記載されている。難波戦記にある今福堤は、旧大和川の北岸で東西に長く、今俗に今福元町と云う。その元町に連なる小丘に当宮は鎮座している。境内には大正期まで榎木の老大樹があった。樹齢千年以上の御神木で、本多林学博士著 「大日本老樹名木誌」 にも収録されている。如何に今福が古い集落であったかが判る。

又、此の地一帯は広く榎並荘と称して、当宮がその氏神と祭祀され伊勢神宮の神税を納める齋蔵が此の小丘に有ったと古老等が言い伝えている。

​ ※写真は大正時代の境内と榎老大樹

​今福の道標と伊勢の札降り

この道標は、天保三年(1833)年三月に世話方六名により建立されました。もとは古堤街道(大和街道)の四辻(今福南一丁目・中央の交差点)の東南角に建っていたもので、古堤街道は野崎詣、大峰山詣、伊勢詣の交通の要路であったことから道標が建てられたと言われています。
「城東区史」に中央・四辻の東のあたりで伊勢の御札降りがあり村民が踊り狂った(ええじゃないか踊り)と記載されています。この一件もあり当宮に道標が持ち運ばれたと伝えられています。
安政六年(1859年)三月には今福村の大峰山登山人等により上部に常夜灯が加えられました。

道標には、「左 大阪道、右 のさき、ならいせ道 當村山上講」と刻まれています。

三郷橋の樋

当宮の北西に三郷橋稲荷という小祠が祀られています。このあたりにはかつて鯰江川が流れていて三郷橋が掛かっていました。
橋には今福樋【水門】があり生駒方面から幾重にわかれた井路川の合流地点があり、水害の多かった榎並荘上流の村々の水害を防ぐ為に、増水の調節のする総元締を行う重要な拠点を担っていました。
大正六年五月に今福三卿橋閘門樋工事の際、橋にあった三本の石柱で組まれた門のうち二本が当宮に持ち運ばれ、小女郎稲荷の前に横たわっています。残念ながら、一本は工事の際に鯰江川に沈んでしまったそうです。

石柱には「三郷三拾六ヶ村立会悪水門樋」

「澱川通御国役今福村領有之東榎並荘九ヶ邨悪水門樋」と刻まれています。

大阪城と​社殿様式

現在の社殿は、享保二年(1742年)・天保十三年(1842年)・明治十三年(1880年)に改修され、昭和七年(1932年)同じ時期に大阪城の設計を手がけた古川重春氏の設計により改築された桃山様式の風雅な流造の社殿です。

小女郎稲荷社

今福恵比寿社

天 満 宮

弁財天社

吉松彦七稲荷社

天 神 社

道 祖 神

行  宮

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